Mであると勘違いしているのでは?
私が出会った女性の中に「私はSです」と言っていた人はいない。
そういうことについて何も言わないか、「Mっ気がある」と言った女性ばかりなのである。
Mを標榜する女性とお付き合いをして思うのだが、そうは言っても本当にそうなのかな?と思うのである。
もっと言うと「違うよね?」ということなのだ。
思い込んでいるだけということになると思っている。
私はMと言われたところでSのプレイはしないのである。お一人だけ普段のお仕事柄Sっぽく振る舞わないといけないのだろうな…という方がいてSっぽく振る舞ったことはあった。それはその女性に非日常を与えようとしただけであり、あくまでもプレイレベルの話なのである。
ではなぜ女性がMを標榜してしまうか?ということを考えると「生まれ育ち」なのではないかな?と思っている。
私のお相手となる女性は私と同世代。
ごく最近まで男尊女卑的な社会に晒されてきたわけである。そして生家もその流れを酌み、男尊女卑の中で日常を過ごした人は多いと思うのだね。
自らの父親が男尊女卑的な考えを持たなくても、社会がそうであるから母親は父親を立てるということをする。そして表面的には男尊女卑な家庭になる。
それがスタンダードと考えるようになるのだろう。
母親を自らの鏡と考えれば、その堪え凌ぐ姿を女性としての美徳と考えるのではないか?と考えている。
結果、Mを標榜することが女として可愛いと思われると思っているフシがある。
女性のことばかりを書いたが男尊女卑的な社会は間違いなく男性にとっては好都合なのである。
しかも、それが当たり前かのような、ごく自然に出てしまったりするのだ。
こうした二人が出会ったときにどうなるか?と言えば、
女性は「耐えてでも尽くすのがこの人が喜ぶことだから」
男性は「横暴に振る舞ったところでこの女は満足しているみたいだから」
と、いうことで共に正解となってしまうのである。
ただ、これだと本当に望む姿なのかな?と思うのである。日常と変わらないのではないか?と。
私はこういうことをしてからすぐにそのあたりのことは思っていた。
生意気な言い方だが、そうした概念に囚われている女性を解放するのが自らの役割ではないかな?と思ってきたのであった。
で、その考え方は間違えではなかったのではないかな?と思っている。
女性が解放された結果、私からも離れていったこともある。私が辛く、寂しい思いもしたこともある。
しかし、それは別れには変わりないのであるが、「卒業」と思えば私が施したことをきちんと守ってくれた末の結果と思いたい。
女性たちの生き方として正しいと思うんだよね。
喜んであげないといけないのだろう。
今カノとも「卒業式」をしないといけないのかな?
それは考えたくない。
私が本当に強くなれないところだね。