ゲスな男、ゲスな女(9年間の不倫と今の戯言)

40過ぎに女の味を知ったショーもない男のブログです。言いたいこと言うばかりで参考にもなりゃしないと思います。コメントは承認制にしているので、非公開の場合はその旨書いてください。

サンドバッグフレンドの件③

私が当時のブログを書いた時には後者の方との関係に疲弊しきっていた時期であった。2年を経過しようとしていたからね。

あれを書くことはなんというか自分の恥部をさらす気持ちがあったのだ。

しかし、なんであんなことを書いたかと言えば、もう終わりにしようと心に決めたからなのである。

そして、その2週間後にお相手に嫌われるようなメールを出して、その1週間後にお相手から関係を断絶したい旨のメールをもらった。

それで良かったと思っている。
勇気がいることであったが嫌われるようなメールを書いたことは自ら「よくやった」と労ってやりたい。

しかし、自ら関係を断絶する言葉を発せられなかったことは自らの弱さを象徴するものでもあると思っている。お相手に言わせのだからね。

人は自らと同じ人間ばかりじゃないか?と思いがちだ。そして、いい歳になればそうではないということくらい経験則でわかっている。

それなのに冷静になりきれないのは喜怒哀楽という範疇から外れているもののひとつである「恋愛」という特殊な感情があるからに違いない。

また、自らが正しいと思いたい自分愛も重なるのだね。

自分さえ制御できないのに他人を制御できるわけなんかないのさ。
自分を信じるのはいいが、自分を買い被ってはいけないということだね。

そしてもう1つは相手をサンドバッグにするほど責めるような人間というのは正常な人間関係を構築できないということなのである。

前項でサンドバッグフレンドの心理をいじめに準えたが、いじめている側も悪気があってやっているわけでもないということも多いようだ。

誰かに指摘されてハタと気づくというということも多いらしい。だからいじめは周囲が看過することなく、きちんと指摘するべきなのだ。

一方サンドバッグフレンドの場合はどうであろうか?
二人だけの関係であるがために第三者が叩く側に指摘してくれることはないから、サンドバッグ側がきちんと自覚しないといけないということなのである。

ここで勘違いしてはならないのは「この人は私がいないと…」のようにサンドバッグ側が昭和ドラマや演歌の世界に浸り、自らを美化してはならないということだろう。お恥ずかしながら私はこの感覚に浸った。長く。

情は人のためにならず、という。
しかし、こんな考えは情にもならないということも含めて自覚しないといけない。お相手の幇助に1つもなってはいないのだ。

「あの人は弱いから…」という勝手な理由付けもいらない。考えても見て欲しい。フィジカルであろうとメンタルであろうと人を叩くことができる人間が弱いわけがない。

自らの方がよほど弱いのである。

つづく