サンドバッグフレンドの件
私が1年ほど前に書いたことに対して取材とも取れるような書き込みがあった。
その内容としてはサンドバッグフレンド。
いわばメタくそに言われてもそれをヨシとして、関係を続けるという内容のものだ。
当時の記事はコチラ
http://smartlifejfk.hatenadiary.jp/entry/2017/10/19/225027
送り主のドメインを見れば恐らくは確かなものであるようだ。書き込みの内容もきちんとしている。
今更ながらにマスコミという第4の権力に近い方にアプローチされたことは、はっきり言って嬉しいのである。
一方で私もまたこのブログを書いてはいるものの、一応、実態を知られたらいけないと思うわけであり日本を代表するメディアに堂々と答えるわけにもいかないのだ。
リアルは意外と謙虚に生きているからね。
そこでその方には大変申し訳ないのであるが、この場で当時との心境の違いなどについて書きたいと思う。もしそれがその方のお仕事の一助となれば幸いである。
結論から言うと現在はそのお二人とのやり取りはない。
当時というかこの直前くらいは、なんというかすごく弱くなっていた時期ではあったのである。
お二人を並列に書いているかのようにしているが、本当に私がサンドバッグフレンドになっていたのは後者の方である。
ただサンドバッグフレンドとして長く成立するのは前者なのかな?と思う。
この女性に対しては私は余裕があった。聞いてあげられ、打ちのめされてもいいというだけの。
もともと女性とお付き合いするというのは自己のことを話すよりも「聞いてあげる」ということの方が重要だと思っていた。特に愚痴が自然と出てくる環境を作るというのが必要であると考えてはいた。
この女性の場合はそれに加えて、本当はお付き合いしていた男性二人に対して言いたいことを私に対して振りかざすように仕向けていたところがある。
くそみそ言われることが何が楽しいのか?と思うかもしれないが、私が仕向けたことに対して思った通りの反応が返ってきたからで、私が精神的なMだからではない。
ヒアリングを上手くする、つまりは聞き上手であるためには話上手でないといけないと思っていたがどんな感情であれ、それを自分に仕向けさせるというのはなかなか面白いことなのであった。
あとは如何に口汚く罵られようともそれに堪えうるかという自らの忍耐との戦いであるが、この力が自らには大きいということがこの時にわかったのである。
フレンドという言葉を使ってしまったが、その関係性は達観しており、私にとっては一種のゲームだったということなのだ。
むしろ拘りをもっていたのは後者であったのである。
つづく