サンドバッグフレンドの件②
当時のブログを見るとちょっとカッコつけて書いている部分がある。
後者の方の場合には明らかにサンドバッグフレンドになりたくてなっていたわけではなかった。しかし、サンドバッグとなってでも何らかの関係を継続し続けていたいと思う相手だったのであった。
だからサンドバッグフレンドではなく、いつか普通のフレンドかそれ以上になりたいと思っていた。つまりは普通の関係に至る過程としてサンドバッグとなっていたわけで、それが目的では勿論なかったある。
お相手が私の心を痛めていることに気付き、申し訳ない気分になり、同情を受けて…「そんなことまで聞いてくれる存在は私だけ」くらいに思ってくれないだろうか?と思っていたのである。
「バカじゃないのか?」と言わないで欲しい。前者の方という存在をある意味喜んで作ったのは耐性をつけたいと思ったところもあるからだ。
ただ今となっては自身を「バカじゃないの?」と思うのである。しかし、この時は気持ちが非常に弱くなっており、この方との人間関係を醸成するためにはこの方法しかないと考えていた。
私と同じ理由からサンドバッグフレンドとなる人は実は多いのではないのか?と思っている。
この心理というのは「いじめっこ」と「いじめられっこ」の「いじめられっこ」の心持にも似ていると思う。
私は子どもの頃にいじめられた経験がある。
同じような経験をされた方もいると思う。
親は言った。
「あんな子、無視しなさい」
しかし、その時にその態度に出れたか?と言うとそうではなかったのである。
無視などすればもっといじめられるのではないか?と言うこともなかったわけではない。しかし、むしろ自分が置かれている環境を崩したくないと言う理由の方が大きい。環境の中で自らの役割を全うすれば衡平性が保たれるくらいのことを思うのだ。
しかも「いじめっこ」のことを嫌いではない。いや、どちらかというと好きなのである。
そう、だから嫌われたくはないという感情が働くのだ。
よく言われるマインドコントロールされている状態である。
そしてマインドコントロールの最たるものは自らをマインドコントロールしようとすることである。
やがて、そうなったことを自責にするようになる。
そういう意味で「いじめ」という行為は容認されるべきではないと考える。DVや職場などでのパワハラもまた然り、なのである。
ただサンドバッグフレンドを容認してしまう、しかも自らその状況を作るというのはいじめなどよりも更にタチが悪い。
なぜなら最初からそうなる状況を自ら作りに行っているからだ。だからこそ、いっそう自責の念に駈られるのだ。
私に対するいじめは私が苦し紛れに出したパンチが相手にクリーンヒットしてしまい、いじめっこが泣き出すということで終了した。逆に言えば、このような衝撃的な現象が起き、とりまく環境が一変しない限りはなかなか現状を打破しえないということであろう。
実はあのブログを起こした時にはこの状況を打破しないといけないという自分がいたのも事実なのである。
つづく