受容できるようになったのは
私は誰に対してでも基本的には寛容でありたいと思っている。
この寛容という態度は実は難しくて、物事に関わらずしてこの態度を取ると放置しているに等しい状態になるのである。
だから寛容になる前の段階として受容というものがないといけないと考えている。
先ず受け入れてみて、それからどういう態度を取ろうか?とするのだね。
周囲を見ていると関わりを持たねばならない関係(例えば同じ職場)であるにも拘わらず、いきなり排除から入る人間がいる。いや、意外と多いよね。
では自分も最初からそうであったか?というとそうではない。実はこういう考えに及ぶようになったのは最近なのかもしれない。
「痘痕もえくぼ」という言葉があるが、この言葉の意味があまり実感が沸かずに生きてきた。
今思えばなのであるが、以前お付き合いをしていた女性との時がこれであったのかな、と思うのである。
最初のうちは自己主張がぶつかって喧嘩をすることもあったのであるが1年もした頃から私が「これではいけない」と思い、自らの主張を通すことを止めるようにした。
それだけ好きだったということなんだね。
すごく我慢をした。心が乱れることが何度もあった。
ただそれを続けているうちに、ややわがままとも取れる彼女の態度も次第に「かわいらしい」とさえ思えるようになったのである。
これが「痘痕もえくぼ」か?と思うのである。
この態度についてはもちろん賛否両論あると思う。
「弱い人間の取る態度」と思う人もあると思う。
そして、そのがまんの捌け口がこのブログに書いている行状の一因となっていたことも否めない。
しかし、たぶんこのことで私は日常生活でも受容できるようになったのであると思う。人間関係の醸成と調整能力を当時の一番身近な人から学んだ、いや、身につけたのだ。
そういう意味でもこの女性には感謝している。
勿論、男女の関係に留まらないのであるが、人と人とがお付き合いをするには溝を埋めていく作業をしていかないといけない。
いつしかくるだろうと思われる対等な関係に於いては先ずお相手の考えを受容し、その考えに委ねてみる期間があってもいいのではないかな?と思う。
いろいろなところで「価値観の違い」などという耳障りの良い言葉で物事の終結を片づけることがあるが、それならばそう言えるだけの努力を自らがしたのか?ということなのである。
やるだけのことをやったと判断した時(これは人の度量にもよるが)に初めて、そうした言葉を出していいと思っている。
はじめから敵対するかのような態度は大人ではない。
受容は勿論、前提として付き合いたいだとか付き合わないといけないという相手にだけ向けられるべきものではあるのだけれど。
縁を持つということはとても奇遇なこと。だからそれを大切にしたい。
ただし、やりきったと思った時に「やりがいがない」と感じた時には縁がなかったものと関係を絶ちきる勇気も必要なのかと思う。肉親ではないのであるから。
その時には「そういう人と縁を持とうとしたのは自分なのだ」と自責にして次に向かうしかない。前を向いてね。
それができたら、きっと自らの成長に繋がると思う。